「十年後に盗みだす」わたしたちへのエール―怪盗クイーン初期3巻における運命―

※2022/7/12 誤字修正・加筆

はじめに

本記事は、はやみねかおるによる『怪盗クイーンはサーカスがお好き』『怪盗クイーンの優雅な休暇』『怪盗クイーンと魔窟王の対決』の3作品において、「運命」、及びそれと向き合う「怪盗クイーン」がどのように描かれているか、筆者の所感を述べるものである。なお、筆者は10年以上前に何度か今回取り扱う作品を通読しているが、今回の記事はそれ以来ぶりに一度ずつ通読した程度のものであるため、内容の厳密性はご容赦いただきたい。また、以下『『怪盗クイーンはサーカスがお好き』『怪盗クイーンの優雅な休暇』『怪盗クイーンと魔窟王の対決』をそれぞれ「サーカスがお好き」「優雅な休日」「魔窟王の対決」と表記する。

本記事における「運命」

日本国語大辞典によると、「運命」は以下のような意味である。

うん‐めい 【運命】
人間の意志を越えて、幸福や不幸、喜びや悲しみをもたらす超越的な力。また、その善悪吉凶の現象。巡り合わせ。運。命運。転じて、幸運、寿命、今後の成り行き。

『日本国語大辞典 第二版』小学館 
japan knowledge(https://japanknowledge.com/lib/display/?lid=200200767c20yKAn5LWW)より。

本記事では、運命について述べる際、基本的にはこの記述に従い、異なる場合は注釈をつける。

「サーカスがお好き」における運命

キンドルで簡単に検索したところ、「サーカスがお好き」には「運命」という語は使用されていない。しかし、クイーンの台詞に以下のようなものがある。

「中国の兵法書に、つぎのようなことばがあります。」

ホワイトフェイスの前に座っているクイーンがいう。

「『勝利は、戦うまえに、すべて、すでに決定されている』――公演がはじまるまえに、すでにゲームの勝敗はついていたんです。」

はやみねかおる(2013)『怪盗クイーンはサーカスがお好き』講談社青い鳥文庫,kindle版270ページ

このクイーンの台詞は、「運命」に近いものを述べていると考えられる。このとき、運命、すなわち人知の及ばぬ力の働く対象はクイーンとホワイトフェイスである。クイーンは本人そのものが人並み外れた能力を持っており、ホワイトフェイスが運営するセブン・リング・サーカスは政府組織とつながりがある。「サーカスがお好き」における「運命」は、特別な存在に関わるものであり、政府組織という特異な存在であるセブン・リング・サーカスに取り巻く非情な運命を、人並み外れた能力を持つ怪盗クイーンが一時的にキャンセルする(盗む)物語となっている。

「優雅な休暇」における運命

「優雅な休暇」から、本格的に「運命」という語が使用され始める。

わたくしは、今まで自分の運命からにげていました。だから、いつのまにか竜が、心の中で大きくなっていったのです。もう、わたくしは、にげません。にげたくありません!

はやみねかおる(2013)『怪盗クイーンの優雅な休暇』講談社青い鳥文庫,kindle版363ページ

「もし、ほんとうに自分の運命を切りひらいて生きていきたいのなら、あなたは本物の雷管をぬく。でも、竜の意志のほうが強かったら、あなたはにせの雷管を抜く。」

はやみねかおる(2013)『怪盗クイーンの優雅な休暇』講談社青い鳥文庫,kindle版363ページ

このとき、運命の対象者はイルマ姫である。イルマ姫はその身分から、将来王女になることが決定されている。幼少期は違和感なくそれを受け入れていたが、段々と受け入れがたくなり、イルマ姫は自分の運命を拒絶するがゆえに自身を亡き者にしようとするもう一つの人格を作り出してしまう。しかし、イルマ姫は最後には自身の運命を受け入れ、国に戻る。「優雅な休暇」におけるクイーンの出演シーンは多く、活躍もしているが、この運命に関してはクイーンは第三者となり、ラスト、彼女が国に無事に宝石とともにかえるための手続きのお手伝いをするという形でしか参加しない。ここから、「運命」の対象者が、一段階、読者である「我々」に近くなる。運命はクイーンだけでなく、シャンデリアに登ったら転げ落ちてしまうような女の子にも働くものなのである、と提示されている。

「魔窟王の対決」における運命と意思

「魔窟王の対決」は、運命が主題の一つと言ってもいいだろう。「サーカスがお好き」では0件、「優雅な休暇」では5件であった「運命」という語は、「魔窟王の対決」では11件使用されている。また、「運命」に強く関わると考えられる「意思(意志)」という語も、「サーカスがお好き」では1件、「優雅な休暇」では2件のところ、「魔窟王の対決」では27件使用されている。

「説明するのは、なかなかむずかしいですね。ただ、はっきりいえるのは、怪盗の美学を実践することが、私の運命だということです。」

「運命ですか――。」

王嘉楽が、からになったグラスにブランデーをそそぐ。そして、またきいた。

「あなたは運命論者ですか?」

「いいえ、私は神も仏も信じてません。運命などという言葉で、かんたんに未来をうけいれようとは思いません。わたしの行動を決定できるのは、わたしの意思だけです。」

はやみねかおる(2013)『怪盗クイーンと魔窟王の対決』講談社青い鳥文庫 kindle版114ページ

ここで、怪盗クイーンにとっての「運命」が定義づけられる。クイーンにとって「運命」とはドラマチックな言葉、であり、何をも超越した抗いがたい力ではない。怪盗クイーンは自分の意思で、自分の運命を「怪盗の美学を実践すること」と位置付けることができる、可変なものとしている。

また、「魔窟王の対決」では、怪盗クイーンの獲物として、「運命」を象徴する「半月石」が提示される。半月石の主である王は、また、それを取り巻く人々は、「半月石の力で王はこの立場におり、四龍島ができている」と信じている。ここで「信じている」と記述するのは、「魔窟王の対決」において明確に半月石の力があるのかないのかが描かれていないからである。しかし、少なくとも、「魔窟王の対決」の登場人物の多くは、四龍島の住民は、半月石を知り、半月石の力を信じている。

半月石を知ってから、クイーンを含む登場人物は「今行っていることは自分の意思によるものだろうか?」と疑い始める。すべては半月石の目的に沿った行動なのではないか、という思考が、ふとした時によぎる。

運命の対象者は、「魔窟王の対決」において、読者の「われわれ」のような、一般市民にまで広がるのである。

気に入らねえな……。

ヴォルフは、つばを吐いた。

もちろん、王は気に入らないやつだ。しかし、それ以上に、島の人間の方が気に入らなかった。

島の人間の目――暗く、よどんだ目。人生を楽しむことをわすれ、生かされているだけの者の目。

はやみねかおる(2013)『怪盗クイーンと魔窟王の対決』講談社青い鳥文庫 kindle版130ページ

「四龍島城砦から、でたいの?」

龍狼の質問に、小牙はうなずいた。

「だって――。」

そういう小牙の目は、さっきまでとはちがう。暗くよどんだ光をはなっている。

「ここにいても、未来はないもん……。」

はやみねかおる(2013)『怪盗クイーンと魔窟王の対決』講談社青い鳥文庫 kindle版176ページ

運命の力を感じた一般市民の反応は「無気力」であった。自分ではどうしようもできない。今後の運命は決まっている。島の人間の目からは、そのような「あきらめ」が読み取れる。また、青い鳥文庫の対象年齢である小学生ほどの少年、小牙の描写を見ても、このような「運命」を感じることが、読者にもあるであろう、ということが提示されていると考えられる。

どのような家に生まれたか、どのような地域に生まれたか、どのような学校に入ったか、それで、自分の今後が決定されているように感じること、そして、それはきっと、このまま自分が変わらなければ、想像通りに展開されるであろう、という瞬間は、しばしばあるだろう。それは、自分の力ではどうにも変えがたいように思われ、その強大な力は、「運命の力」と言ってもいいほどであるときさえある。

そのような「運命」を感じさせる存在が、「魔窟王の対決」では半月石という形で描かれている。

しかし、繰り返し述べるように、「半月石」(すなわち、運命)の力は、明確には描かれていない。「王は半月石のおかげで出世したのだ」とも、「半月石の力は本当にあった」とも、書かれていないのである。

「じゃあ、クイーンさんが弾丸をぬかなかったら……。」

「わたしは死んでただろうね。わたしが助かったのは、半月石の力じゃない。つまり、まだ、半月石は、怪盗に盗まれることを望んでないということだよ。」

はやみねかおる(2013)『怪盗クイーンと魔窟王の対決』講談社青い鳥文庫 kindle版281ページ

王の撃った銃が不発だったのは、クイーンが弾丸を抜いていたからである。では、なぜ、王は負けを認め老いてしまったのか。

ここに、「魔窟王の対決」における、「運命」に関するメッセージが込められていると考えられる。

王は、「クイーンに自分が負ける」という運命を、信じてしまったのである。運命を信じるということは、変えがたい力を感じるということで、すなわちそれに降参することにつながる。王も四龍島の住民と同じく、「生かされているだけ」の存在となってしまった。

運命は、信じた瞬間に効力を発する。そんなものは本当にはないのか、気づいてないだけで本当にはあるのか、実際のところは分からない。

しかし、信じてしまったら、そして、あきらめてしまったら、運命は、運命となり、その力を自分に行使する。

それを変えるのは何か?クイーンの、小牙の、折れた刀でガラスをぶちやぶったジョーカーの、そしてわたしたちの、「意思」である。

小牙の境遇は物語を通して決して変化はしていない。しかし、小牙の意思は変化した。

「十年たったら、自分の力で盗みだします。」

はやみねかおる(2013)『怪盗クイーンと魔窟王の対決』講談社青い鳥文庫 kindle版281ページ

小牙は、「いま」は、クイーンのように半月石を盗み出すことも、その上で捨てることもできない。しかし、十年たったら、と小牙は言った。

この言葉は、小牙の年齢から、読者へ向けられたものととらえられるだろう。

クイーンは、運命を信じないことができる。運命を盗み出し、その上で捨てることもできる。

しかし、読者である我々は、半月石の存在を常日頃感じてしまっているし、時には信じてしまいそうなときもある。いままさに、「親に本を読めと言われたから」、四龍島の住民のような目をして怪盗クイーンシリーズを読んでいるかもしれない。

しかし、「魔窟王の対決」を読んだ読者は、小牙とともに、大事なことを知った。

十年後、自分の力で盗み出す。赤い夢の住人であるならば、きっとそれができる。そのようなエールが、「魔窟王の対決」には込められているのである。

終わりに

本記事では、怪盗クイーンシリーズ初期3巻における「運命」、そしてそれと向き合う怪盗クイーンがどのように描かれているかについて述べた。「サーカスがお好き」では「運命」はクイーンやセブン・リング・サーカスのような特別な存在に働き、超越者であるクイーンはその運命をひと時盗むという形でかかわる。「優雅な休暇」では「運命」は能力的には一般的な人間と言ってもいいイルマ姫を対象として、クイーンは彼女が運命をうけいれるための手続きを手伝う第三者として描かれる。「魔窟王の対決」では、「運命」は信じた瞬間から効力を発するが、意思の力で変えることができるもの、そしてクイーンは明確な意思を持ち運命を拒絶する者として描かれ、クイーンとはことなる一般市民である小牙の運命が小さく変化する所まで描かれている。

日々の行動で自分の生活は作られる。そして、日々の行動を選択するのは自分の意思である。運命を信じ、意思を持つことが無駄に思えたとき、半月石の存在を感じ、その効力を信じてしまったとき、我々は四龍島の住民となる。クイーン一味が自分の意思を疑う瞬間があったように、そのような瞬間は、だれにでも―クイーンにでさえ―おとずれる。その時に思い出せるように、そして前に進めるように、そのような祈りが、特に「魔窟王の対決」に込められているように感じた。

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