今までだってこれからだってずっと他者
「へえ、さっちゃん美大行くんだ」
「そう、なった」
テーブルをはさんで向かいに座る相手は、作倉の返事にへぇ、すごいすごいと笑い、ティーカップに口を付ける。ひっつめにした彼女の頭がややうつむく形になり、強風にさらされ整列から逃げ出した額付近のおくれ毛が、店内のライトに照らされまぬけに揺れるのが見える。
「いいね、どんなことやるの?」
「修復」
「シューフク?」
「美術品が、この後も、未来も、残るように、メンテナンスする技術を勉強しに行く。」
「ほえ~…すげ~ね」
「…のりちゃんは?」
「文学部。今のところ考古学専攻志望」
「…コーコガク?」
「まあ、イセキとか見て、昔の人はどんなことやってたかな~みたいな研究をする感じ~」
この回答は、佐倉にとってやや意外なものであった。目の前の同い年の従妹、黒潮徳枝は、確か絵を描くのが好きだったはずだ。自分よりも制作ペースが速く、何枚もの作品を描き上げ、また同じようなものは決して描かない、上昇志向のある人間だった。対して自分は…ということを考えると、そんな自分が美大に行くのであるから、徳枝はもちろん美大に進学するのだと思っていたのだ。
「…何で文学部なん」
「えぇ?」
高くて丸い、気の抜けた返事。口調が粗雑な作倉に対して、徳枝は「ほえ」だとか「ほげ」だとか、粗雑ではないのだが丁寧でもない、しかしかわい子ぶっているわけでもない、強いて言うならあほらしい言葉遣いをする。しかし、
「まあ、私はずっと消費者なんですよ」
「消費者?」
「美術に関して当事者になろうと思えない。美術を、他者とすることでしか関われない。」
「そんなことねえだろ」
「そんなことあるある~。ってか…」
「なんだよ」
「さっちゃんだってそうだったからシューフクなんでしょ」
しかし、それは彼女が阿呆だということではない。
見渡す限りすべての人が、黒い服を着ている。生地によって、染め方によって、また着ている年数によって、黒の現れ方は異なるのだなあなど、とりとめもないことを考えながら、作倉は時が過ぎるのを待っていた。
中央には徳枝の写真があり、気の抜けた笑顔で写っている。徳枝の家族は非常に仲が良く、そのためか、法事もこまめに行われている。なんとかありつけたはずの就職先を失った動揺がまだ消えていない時期であっても、同い年の従妹の法事にはさすがに行くべきだろう、と判断した。しかし、自分にとって意味が分からない念仏には想いを馳せようもなく、モノトーンの空間をただぼんやりと眺めていた。
ふと、参列者の一人に目が留まる。その喪服の黒に、ある男の瞳を思い出す。色を身につけない彼が描いた、色とりどりの絵のことも。
あの日、結んだ髪をほどき、眼鏡を外した姿で絵の前に立った。「この絵は、これで完成です」と彼は言った。
作倉には、今になってもそのことにいまいちピンと来ていなかった。絵だけで完結しない、現代美術的な何かなのだろう、という解釈にとどまっている。
しかし、完成したとて、その、どこを見ればよかったのだろうか。
どうすれば、あの作品を、鑑賞したことになるのだろうか。
「あたし、ああいう人ダメなんだよね」
徳枝との会話を思い出す。受験が終わり、新生活の準備までにまだ日がある。そんな気の抜けた休日に、近所の紅茶専門店に集合した。春の地元はいつでも強風で、くせ毛に悩まされているにもかかわらず整髪料の使用法を心得ない我々は、とっちらかった髪で優雅なティータイムを過ごそうとしていた。ケーキをつつき、紅茶を飲んで話していると、4人組の女性が近くの席に座ったのだ。
その中に、小柄で、肌は白く、まつげは長く、強風の中来たはずなのに髪の毛に一切の乱れがない、「完璧」な状態の女性がいた。
「あのひと、なんかすげーな」
そのように、徳枝に囁いた際の返事だったと思う。徳枝は彼女が気に入らないようだった。
「え、なんで?」
「ああいうの、あたし…」
徳枝はケーキを口に詰め込み、紅茶で流し込む。そのまま、「気に入らない」という感情も流してしまいたいように見えた。徳枝は阿呆ではない。優しく、丸くもない。本当は自分と同じくらい、いやともすればそれ以上に、「良い性格」をしていることを作倉は知っている。だからこそ、二人はまだ、仲がいいのだともいえる。
「なんていうか、無理なんだよね~、『自分は鑑賞物です』ってタイプの人間」
「鑑賞物?」
「まあ、見てればわかるけど。あの人、ほとんど自分から話題振らないのよ」
視線をやればたしかに、件の女性は薄く微笑んで他の三人の話に頷くばかりだ。5分前に近くに座った人間の話し方まで観察して粗を探してしまう。徳枝はその声に反して、決して、いつだって、気を抜いてなどいないのだ。徳枝の習性に感心しながら、先を促す。
「自分はいることに価値がある。見られることに価値がある。それ以外に自分に価値なんてないと思ってる」
「それは占い過ぎじゃね?」
「まあこれは偏見占いなんで。かすってもないだろうけど。」
でもね~、なんかね~と、出す声はずっと間が抜けている。どうにか戻したいのだろう。「間の抜けた黒潮徳枝」に。
「単純に、フツーに、周りはその子と話したかったりするわけよ」
「なんかそういうことあったわけ?」
「ベツニ~ナイナイ」
「あっそ」
徳枝は、そのあと、どうしたんだっけ。何か自分に謝っていた気がする。謝られるようなことを、彼女は言っていただろうか。
焼香の順番が回ってきて、意識が浮上する。順序をきちんと教えられたことのない動きを、見よう見まねで済ませる。念仏も聞き流し、焼香もなあなあで、とても死を悼んでるようには見えないが、きちんと思い出を反芻しているから許してくれと、徳枝に脳内で謝罪をしておく。
「『自分は鑑賞物です』ってタイプの人間」
胡極を見ても、彼女はそう言うだろうか。たぶん言うのだろう。やっとあの日、地下室で観た「作品」の、なんとなくの概形がつかめてきた。
彼は鑑賞物だったのだ。彼にとって、そして、彼の知る誰かにとって。
自分を疑いもなく、作品の一部に組み込んでしまえるほどに。
彼はずっと、美術に対して当事者だったのだ。
まあ、私はずっと消費者なんですよ
美術に関して当事者になろうと思えない。美術を、他者とすることでしか関われない。
さっちゃんだってそうだったからシューフクなんでしょ
徳枝に言われたことは、すべて図星だった。美術に関わることは好きだが、自分で何かを生み出すことを挑むのは難しかった。正しい形があり、それを実現しようとする修復は、営み自体に心を動かされたというより、単なる逃げ道だったのである。
そんな甘い気持ちで取り組んでいたのだから、就職活動は難航した。美術に関わり続けるか、それとも、勧められている通り家業を継ぐか、と考えていた時期に、あの絵と出会ったのである。
チューブからそのまま出したように冴えた色の数々。
それに光をくわえる直線、飛沫。
コントラストを支える黒。
巨大な、強大なF200。肌が粟立つ。これは、自分が決して描けないものだ。
腹の底から湧くのは、圧倒的な無力感。
悲しくなった。自分が、これに挑まなかったことを。
悲しくなった。自分が、これに挑もうともしなかったこと。
でも、それでも、
こんなにも、楽しい。
嬉しい。
この絵に出会えたことが、こんなにも。
「まあ、私はずっと消費者なんですよ」
そう、私もずっと消費者だ。
だけど、消費者だからこそ、出来ることがある。はずだ。
念仏がようやっと終わる。締めの挨拶があり、解散の流れになる。
全然謝らなくてよかったよ。のりちゃん。
あの言葉があったから、私は、大好きな作品に再会できたよ。
会場の外に出る。この後は食事会だが、無職の自分にされる質問など決まりきっているので辞退した。徳枝の大学の同期ならともかく、親戚の中には、性格の悪い彼女の話で盛り上がれる相手もいないのだ。
空を厚く雲が覆っている。太陽の光がないと、世界の彩度はぐっと下がる。
あの絵に会いたい、という思いが浮上する。あまりしゃべってくれない彼の代わりに、たくさん喋ってくれているあの絵に。
彼にも会いたいのかもしれない。鑑賞物ではない彼に。たとえ今でも、彼の中で、彼は鑑賞物だったとしても。
私はただ、あなたと
2022/4/2