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CoCTRPG『紙魚のうた』、『最強LOVERS』のネタバレ
わるいことは海で起こる
「おれがふられたのも飯を奪われたのも殴られたのも火傷をしたのも全部海だった!! 海だ! 海が全部悪いんだ! だから海を追い出しさえすれば、おれはきっと良くなれるはずなんだ」
おれはこれ以上なく明晰な解を安井に突きつけてやった。いや、話しているうちにこの光輝く答えを見つけ出したと言ってもいい。
「でも別に」
安井はごわごわしたタオルで俺の腋の汗を拭きながら、ぼそりとつぶやいた。
「良くなりたいわけじゃないんでしょ」
おれは拭かれたそばからまた汗をかくことになった。そう、それが、クリティカルな、致命的な、人生における課題だった。でも。べつにおれは、
「最悪になりたいわけじゃないんだ──はは、若いな、この頃は。」
一節を読み終えて、椎塚は咳払いをした。喉が渇いたのだ、と思ったから、私は給水機から水を汲んだコップを差し出した。見れば、椎塚はすこしぎょっとした目で私を見ていた。
「なに。」
「いや、本当にあれ、使ってるんだな。」
「ああ。冷たいし、便利だ。」
「家に給水機あるやつ初めて見た……ほんとだ、うまい。」
訪問販売のイメージがこびりついた家庭用給水機に警戒していた椎塚だったが、一口飲めば程よい冷たさに刺激されたのか、そのままぐいぐいと飲み干してしまった。おかわり、とコップを差し出してくるので、視線を動かして自由に飲めと促してやる。
「これ何で買ったんだ。もしかしてマジでセールス?」
「実家から。就職祝いでもらって、それからまあ、便利だからずっと水買ってる。」
答えれば椎塚は給水機側に顔を向けたまま「ああ」とやや弱い返事をした。「喜ばしいことだもんな」とも。
そう。喜ばしいことだ。いつまでも小説ばかり書いていた息子が、大手の出版社に就職なんて。これ以上なく。
「飲んだら再開しよう。」
「はい。」
俯いていた椎塚は水を一気に飲み干し、ダイニングの椅子に腰掛けた。テーブルには少し懐かしさのあるデザインの冊子が六つ並んでいる。表紙には全て「かたわれ」の文字。あなたのかたわれとなる物語がここにある。そんな大仰なタイトルに反して、陳腐な作品が詰まった平綴じ本。私と椎塚が所属していた大学文芸部の部誌だった。
「大学時代の部誌を捨てようと思う。最後に一緒に読んでくれないか。」と言って、椎塚を自宅に呼び出した。最終的に彼を昏倒させるような争いをしたけれど、私は別に椎塚との関係を断つつもりはなかった。衣川箔や花巻文江の思考を食ってしまったことと、私と椎塚が昔馴染みであることは、関係がないと思ったからだ。小学生の頃から私と共にいたのは椎塚だ。それは単なる事実だ。椎塚がデシュの力を利用してしまうような人間だった、という事実は、この事実には干渉しない。別々の事象だ。
昏倒させてしまったことを謝罪して、何度か連絡を取ろうと試みていた。そしていち編集者として、次回作の打診なども。そのどれもに椎塚は連絡を返すことはなかったが、きっと読んではいるのだろうと思っていた。われわれは基本的に他者との繋がりに重きを置くのが嫌いだけれど、他者との繋がりを絶てるほど自己が確立してもいないから。
だから今回のメッセージを送ったときに電話が来たことは、私にとっては予想通りのことだった。彼の弱さと私自身の弱さが繋がっていることが確認されて、両者に少しがっかりした。
電話口の椎塚は焦っていたが声色はしっかりしていた。廃人になっていないことが確認されて、ああよかったな、と素朴に思った。知っている人と話せなくなるのは、悲しいことだから。
「お前、恋人にするような試し行為を俺にしてくるのはやめろ。どうせ捨てられもしないくせに。」
「お久しぶりです。元気になられているようで良かった。」
「お陰様でな。それでどういうつもりだ。」
「お願いですよ。書いてある通りの。」
「あんなことお前が言うはずがない。」
「まあ、以前は言わなかったでしょうね。」
「変わったんですってか?夷川先生によほど影響を受けているようで。」
「彼との関係に付随して起こった影響であることは否定しません。」
「はっ。良部賞を獲るような編集と作家はよほど仲良しなんだな。」
「私が誰かと仲良くなれると思いますか。」
「以前はな。でも変わったんだろう?今ではあいつが一番の親友かもしれない」
「あなたではなく?」
「その可能性もじゅうぶんにある。言ってることが本気なら、夷川先生に読んで貰えばいい。より惨めで、甘美で、一層絆が深まるだろう。」
「そんなのは耐えられないから」
だからあなたに頼んでいるんですよ。と言えば、電話口の向こうで言葉が詰まる気配がした。数秒経って「なんだか不気味だよ、お前」と返される。そうだな、と自分でも思う。私が自分の心情を開示するなんて、不気味だ。だって意味がないから。意味がないことを、しない人間だったから。今までしなかったことを突然する人間は、不気味だ。連続性や、文脈を欠いている。でも世界の連続性なんてものはこちらが願って見ているだけの幻なのだと何度も何度もつきつけられてきたから、もはや気にしなくなってきた。私は不気味かもしれないが、別に誰かを狂わせたりしない。
学部一年の後期から四年の前期、年二回欠かさず寄稿したから作品は六篇。出来上がって部誌に印刷される頃には次の原稿をやっているから、改めて読むことはなかった。大学時代はこの部誌の原稿と、公募賞や持ち込み用の小説を書いて過ごしていた。部誌は、そういう時期の熱の塊のようなものだ。
「データも消すのか。」
「いや。」
「なんだ。中途半端だな。」
「別に私の小説を世界から抹消させようという話ではないからな。」
「じゃあなんなんだよ。」
「ただ、思い出したかったんだ。」
「あの日々を、ってか?」
「違う。」
「なんだよ。」
「……僕が、どんな小説を書いていたのか。それがどんなふうに、お前に読まれていたのか。」
夷川さんに小説を読ませてくださいと言われたとき、私は即座に拒否をしたし、小説を書いていたことすら、隠していた。卒業文集でもいいと言われたが、それも嫌だった。小説を書いているころの自分の自我ごとなかったことにしたいという思いがあった。それは人生から丸ごと、ではないけど、編集者になってから会う人には、読み手としてしか対面したくなかった。
ただ、でも、そんなに悪いものだっただろうか、と思ったのだ。ザイスから温泉街に連れてこられ、あらかじめチェックアウトの時間を一時間遅くしてもらって、安心できる布団で、夷川さんとは別々の布団で、ひとりで、ゆっくり眠っているときに。あの時の私は、僕は、そんなに悪いものではなかったような気がした。誰よりも傷ついて誰かを傷つけてやりたいという思いに苛まれていたけれど、それはほんとうに疲れるものだったけれど、身内以外には面白く読めるものではなかったかもしれないけれど、それでも。
だから椎塚を呼んだ。私が小説を書いていたことを知っている男を。私の小説に、理由はどうあれ、少しだけでも執着してくれた男を。
「君の作品にはチャレンジがない。書けないものを書こうという気概が感じられない。自分が安心できる範囲で世界を構築して、上手に書けるものばかり書いているように感じるよ。」とは、持ち込みに行った編集者に言われたことばだ。
私は甘えている。常に。他者に甘えて生きている。
「十五分。」
「はい。」
「十五分したら支度ができると思う。そしたらうちに来い。住所は変わっていない。引っ越す余裕もないからな。あの時と一緒だ。」
「はい。」
「じゃあ切るぞ。」
「椎塚。」
「なんだ。」
「ありがとう。」
言えば、椎塚は返事をせずに電話を切った。甘い男だな、と思う。いつまでも甘えさせてくれる男だ。私は椎塚の願いを、一つも聞き入れてこなかったのに。
かくして、椎塚は私の自宅に来た。テーブルに並んだ『かたわれ』を見て、椎塚はすこし痛むような表情になった。自分の過去作品を見てこういう表情をする側の人生と、しない側の人生というものがある。これは編集者になって身につけた知見だ。理屈で説明することは難しい──あるいは惨いからしない──が、だいたい作家に会ったときに雰囲気でわかる。別にしない側しかプロになれないということはない。だが経験上、しない側の人間の方が長く続くし、賞を取る。夷川さんも、多分しない側の人間だ。あのひとの場合は、恥ずかしがったりはするだろうが。
椎塚はリュックサックからペンとノートを取り出して、ダイニングテーブルの席に着く。重厚な作りのノートのとなりに、シンプルで軽そうなボールペンがなんだかアンバランスだった。
「お前、ボールペンも使うのか。」
「どうなったか知ってるだろ。俺の万年筆が。」
「ああ。」
そうだ。彼の愛用の万年筆は、私に向けられてそれで、それが外れたかなんだったか。しかしまあ、勢いよく叩きつけられた金属であるそのペン先が、どうなったかは想像に難くない。
「あんなことをするからだ。」
「そうだな。意味もないのに。」
そう笑えば椎塚は『かたわれ』を開いた。私の作品までページを繰って、んん、と咳払いをして、
「──安井という人間が、俺は恋しくて恋しくて仕方がなかった。」
読み上げ始めるものだから、私は思わず彼の肩を掴んだ。
「……なんだ。」
「いや。読むのか。」
「読んでくれって言っただろ。」
「そうだけど。」
「俺とお前で、二人でお前の作品を読む。それは、こういうことだ。こいうことだっただろ。」
共に小説家を目指していた頃、椎塚と私は小説を書けば必ず読み合わせをしていた。ある程度の段落ごとに分担して、お互いの小説を読み上げていた。合間に意見を言い合ったりして、結局書き直すならどうするかという談義に移ることもしばしばだった。
お互いの小説が好きで、お互い同じ夢を持っていて、だからそんなこともやった。
今とは違う。今とは違う時の話だ。何もかもではない。椎塚は小説家になって、私は小説に関わる仕事に就ていて。何もかもは違わないが、もうまったく異質なものになってしまったわれわれが、椎塚の読み上げによって今、突然、目の前に現れたような気がして。
身震いをした。
「嫌ならやめるが、それだったら俺は帰る。」
椎塚は肩に掛けられた私の手をどかして立ちあがろうとする。手と手が触れ合って、そこに刻まれた薄い皺や、水分の少なさを見る。自分の年齢を思い出す。三十五。三十五歳になった、私たち。
平均寿命に照らせば大した年齢ではないが、それでもあの瑞々しい頃とは違う。違ってしまった。椎塚は禁忌に手を染めて、私はその前に諦めた。
それは別に変わらない。私たちは一緒に夢を追っていた。それぞれの人生があって、その先に結果がある。今読み合わせをしてみたところで、時は巻き戻らない。
われわれの小説が、途端に面白くなることも、ない。
だけど。
「やる、から。」
「から?」
「帰らないでくれ。」
「ずいぶん素直だな。」
「こんなのを広げて一人にされたら、ほんとうにたまったものではない。」
「けど時間かかるぞ。水はたくさんもらうからな。」
「御礼もする。処分できたら帰りに万年筆を買いに行こう。」
「高いぞ。」
「稼いでいるから。」
喜ばしいことに。大手の出版社に勤めているから。
そう笑えば、椎塚はなんだか、傷ついたような顔をした。何かを言いたそうだったが、多分それもやめて、朗読を再開した。
2025/08/29 感想など