回る天球儀
ルームミラー、サイドミラー、目視。
方向指示器で左を示して、3秒後に寄せて停車。
停車禁止の標識の有無を確認し忘れていたことに気づき、きょろきょろしていると、助手席の窓からこんこん、と音がした。若い子特有の色付きマスクが目に入る。
鍵を開けると、上野は助手席のドアに手を掛け、少し考えて後部座席のドアを開けて乗車した。
「うん、その方がいいね」
「やっぱりそう思います?」
「さすがにこんな時間にアイドルの子を助手席にはのせられないよ」
夜の稽古後、喫煙者のメンバーと延々立ち話をしていた日根野のもとに、「いま外出してたりしませんか」と上野から連絡があった。もし近くにいればお話しできませんか、と。最近はおすすめの作品の共有でトーク履歴が埋まっていた相手からの連絡であったため、日根野は「了解。タバコ臭かったらごめんね」と返事をした。
連絡が来たのは、ちょうど終電が出発した時間だった。
「今日は舞台の稽古があってね」
「メンバーの中に喫煙者が多くて」
「ずーっとタバコ吸いながら話してたんだよね」
上野はいつもの声で相槌を返してくる。しかし、決して用を話そうとしない。
信号が黄から赤へ。早めにゆるく、何回かブレーキを踏む。停止線前でスピードを0に。
ルームミラーから上野をうかがうと、大粒ラメのアイシャドウが街のライトに照らされてきらめいていた。伏せられたその瞳は、どこかを見ているようでどこも見ていない。「あの日」、何度かその目を見たことを思い出す。最近知った「魂飛ばし」という言葉が浮かぶ。
「どこいってるの~」
「えっ!?あ、すみません」
冗談めかして、若干声を張る。鏡越しに目が合う。青信号。視線を戻し、ゆるく発進する。
「家でいいよね?終電のがしちゃったんでしょ?」
「いえ!あ、そうなんですけど、それだけじゃなくて」
うーんと、と逡巡している彼女の声は、どこまでも暗さをにじませない。
「日根野さんはぁー…、『役の気持ちが分かる』って、どういうことだと思います?」
「…おお~」
ハンドルを握る手が少し固まっているのに気づく。換気が徹底されている喫煙所で長時間話していたせいだ。暖房をつける。
「あたし、他人の気持ちを100%わかったことってなくて。むずかしいなー、って思うんですよね。役の気持ちだってそうでー、っていうか、『役がハマる』ってどういうことなんだろうな~って。役と同じ経験をしてれば真実味が増すかもしれないけど、そんな経験したことなかったら~とか。」
「役作り、みたいな話かな」
「今やってる役、自分の思ってることが言えない~っていう女子高生なんですけど。」
「女子高生」
「なんか、言ってみたりしないのかな~って思っちゃうんですよね。だからあんまりうまくハマれて?なくて。自主練してたら遅くなっちゃって。」
終電のがしちゃいました、と。笑い声をにじませることも忘れない。運転をしている日根野から顔が見えないことをきちんと把握し、対応している。上野の買った誰かの才能。本人は未だ大きな手応えを感じていない様子だが、日根野はあの日の出来事が幻ではないこと、そして、「それ」が上野の一部になりつつあることを、彼女と話すたびに感じている。
「…これは僕の方法だから、あんまり真に受けないでほしいんだけど」
「え、日根野さんの役作りのメソッドが聞けるんですか!?」
上野の声が跳ねる。日根野のファンだと、自ら話しかけてくれた彼女。前方に停車のランプを着けている車が目に入る。方向指示器がカチカチと鳴る。
「うーん…上野さんは、歌は好き?」
「うた?…まあ、アイドルだし、歌は好きですよ」
「どんなところが好き?」
ええ~?と困惑する上野の声を拾いながら、日根野は話を続けようかどうか迷った。8つ年上の人間の言葉は、内容の質がどうであれ、それなりに影響力を持つ。「期待通り」の演技しかできない自分の、いろいろなところで聞きかじった方法論が、もし彼女を損なうことがあったら。
べつに、関係ないでしょ
首をかしげて不思議そうな表情をする男が脳裏に浮かぶ。無断駐車の車両を避け、やや性急に進路を戻す。そうかもしれない。僕が「才能」にできることなんて。
上野が口を開く。
「なんかー、歌で『しっくりくる』ときがあるんですよね」
「…しっくりくる?」
ルームミラーがブルーライトを拾う。上野は携帯で曲を検索していたらしい
「うーん、なんか、あたしもそういうこと思ってたかなー、思ってたなー、みたいな」
「歌と同じ内容を話して伝えてみようと思う?」
「それだとなんか、ちがうかもしれません。」
「じゃあ、上野さんも「話す言葉」に限界を感じたことがあるのかもしれないね」
「あー…、あー!もしかして、今やり方教えてくれてます?」
「僕なりの、だからね、あんまり真に受けないで」
わかりました~、と声が返ってきて、ごそごそと紙の音がする。台本を取り出しているのかもしれない。
「え、じゃあ…うまく言葉にできないから―、言わない、しゃべらない、ってことですかー?」
「感情は一つの事態だけで動くだけじゃない、かもしれない……『話す気がなくなる』ってことは、上野さんもあるんじゃない?」
「あー、あるかもしれません」
「それはどんなとき?」
うーん、と逡巡する声が聞こえる。信号は青。スピードはそのままで、通過する。
「話しても返事がないとき…とか、あとは、誰もあたしが話すこと期待してないなー、ってとき」
「その女子高生もそういうことがあったのかも」
「でも、作中では他のみんながこの子のことを気にかけてるんですよ?」
「それに気づく余裕が、その子にあるのかどうか、だね」
再び交差点に近づく。信号は青だが、前方に車が長い列をなしている。進めない。たぶんもうすぐ赤になる。
「僕たちは常にすべてを知った状態で役を演じることになる。だけど本来、ひとりの視野は限られている。誰が何を思っていて、知っていて、何が見えているのか。」
沈黙が聞こえる。信号は赤になった。
「あのとき、僕は君の見えている門が見えなかった。だけど、君は僕のようにあの門を開く言葉を知らなかった。」
日根野は後部座席を振り返り、上野に自身の携帯を渡す。
「好きな曲流していいよ。ちょっと家までかかりそう。」
上野と目が合う。上野はきちんと、日根野を見ている。
Bluetoothスピーカーから、力強いピアノの音が流れ始める。青い光がフロントガラスを照らす。車は静かに発進する。
2021/11/22