黒い影から飛び出した彼は

 おれが東里とうりかづきを目撃しても冷静でいられたのは、彼がまったくもって超然としていたからだろう。
 かれこれ六年間指導を受けてきた須見すみ 是治これはる 教授が、今年度で退官する。ついては最終講義を行うので、都合をつけて出席すること。そんな内容の電子メールが表示された画面を眺めながら、東里の名前を想起しなかったと言えば嘘になる。須見先生との記憶をさかのぼる場合に、東里の存在は不可欠だからだ。しかし現在のおれは彼のことを思い出したからといって何ができるというものでもなかったから、受け取ったメールに粛々と返信をして、手帳に予定を書き入れただけだった。
 博士課程を修了してからほぼ訪れることのなかった黒群くろむら 駅前は、ずいぶんと様子が違っていた。地方の中では都市部を誇るまちであったが、在学時代は休日でもどこか品のある混雑具合だったものだ。しかし今日は平日だというのにごちゃごちゃと人が行きかっていて、ベンチや生垣には必ずと言っていいほどトールサイズドリンクのカップが置き去りにされていた。駅の入り口真正面には「KUROMURA」というローマ字のオブジェが立っていて、何の記念になるのか人々はそこで写真を撮っていた。
 最終講義が行われる黒群大学は、駅を出て、まっすぐ進む並木道を通り抜け、「街並み」というものが失われてくる山に入りかけたところにある。在学中は電動自転車や原付で通学するものがほとんどだったが、最近は地下鉄が通ったことで、専らそちらで大学に向かう者のほうが多いらしい。駅からすぐに地下鉄に乗り込もうかとも思ったが、並木道の終わりにも地下鉄駅は存在するらしいと分かり、一旦そこまでは歩いてみることにした。
 黒群は歴史的に植樹に力を入れていたらしく、並木道の木はどれも高く伸びきっている。しかしみずみずしい緑とはどこか違って、角ばって黒々とした、ぎくしゃくとした木々だった。この奇妙な様子は大学時代から変わっていない。葉が落ち切った冬は人手も少なくゴーストタウンのようで、雪が降る日は太く鋭い枝の黒と雪の白が嫌な意味でよく映えていた。そうだったはずだ。現在はこの街道にすら混雑が感染して、歩者分離式の大きな交差点までできていた。どこか異界を思わせていた街道の雰囲気はずいぶんラフになっていて、ショップもフルーツジュース専門店やタイ焼き屋など、カジュアルなものが並んでいた。通りの終わりに、まるで陰に隠れるようにして佇む文具店は以前と同じで、どこか安心してしまう自分に苦笑した。
 山まで歩く時間も体力もなかったので、地下鉄に乗って大学に到着した。街と違って、大学はそうそう変わらないものだ。サークル棟のある南キャンパスは多少は様変わりしているのかもしれないが、駐車場と研究棟しか存在しない北キャンパスは、そもそも変わりしろ がほぼなかったのだろう。
 退官する大学教員の最終講義は、その教員の研究室の学生のほかに、縁のあった教員や、元教え子が出席できる。学生以外も参加するので、会場となる教室は広めのものが割り当てられる。特に席は指定されておらず、自由に、出来ればなるべく前方の席に座ることを勧められる。在学時は半分よりやや後方、プロジェクタに向かって左側の席を選んで座っていた。ちょうどそのあたりに見覚えのある人物がいたので、前方は在学生が座ればいいだろうという理屈をつけて、おれはいつも座っていたような席を選んだ。
はじめくん。来たね」
「どうも」
「来るなら連絡しておけばよかった。お昼一緒に食べられたのに」
「おれ昼は新幹線のなかだったんですよ」
「あ、結構忙しかったんだ」
「はい、講義の準備が終わらんくて」
「ちゃんと社会人やってるんだね」
「大学社会ですけどね」
 自嘲気味に返事をすれば、二つ離れた席の波並はなみ さんは眉毛を上げて微笑んだ。在学時代、ほぼ唯一研究の分野が近い存在であった波並さんとは、学会発表のスライド作りから修論の体裁不備チェックまで、あらゆるところで意見交換をする関係だった。大学院生という存在は、学生でありながらも同い年の人間はほぼ就職して社会で働いているという微妙な立場で、おれたちはそんな半端な状態に時折苦しみながら、「修了して社会に出る、修了して社会に出る」「一生大学からは出ないけど!」と声を掛け合っていたのである。
 講義の時間が近くなって、かなりお偉方の関係者だと思われる大学教員然とした老人たちが席を埋めるようになってきた。二、三雑談を交わした波並さんとおれはまだまだ話せそうだったが、そのものものしい雰囲気に圧されて無言になった。おれは配布された講義資料に目を落として、講義開始の時間を漫然と待っていた。
 東里かづきが現れたのはそんなころだ。
 彼の雰囲気はまるでいつも通りで、あのころからまったく時が経っていないというような思い違いをしてしまいそうだった。彼がこの場に訪れるのはおれよりも久しいと思われるのに、昨日も受けていた講義の続きがあるから、今日もこの教室に来た、といった様子だった。だからふと、ついうっかり、「いつも通り」に彼に声をかけようとしてしまったほどだった。
 おれが右の手を上げかけたのと、教壇側の扉が開いて須見先生が入ってきたのはほぼ同時だった。先生の顔が見えて我に返り、おれは上げかけた右手で耳の裏を掻いた。過剰に太ってはいないが柔らかな輪郭線を持つ須見先生の身体がそろりそろりと教壇に向かう。資料提示のセットアップののちに、須見先生は薄目で教室を見渡した。先生の目が東里の来訪をみとめ、やや見開かれる。しかし緊張をはらんだのはその一瞬で、先生はむしろ東里が来たことを歓迎するように笑みを深くした。
 東里が座るのはいつも中央前方で、位置関係上、おれは左斜め後ろから彼の丸い後頭部を視界に入れることになる。短く切られた東里の髪はそれでもどこかふわふわとしていて、うなじにはいつもくるりと弧を描く癖がついていた。
 様子の変わらない東里の、そこだけはこれまでと違った。彼の癖毛はきれいに刈られていて、うす橙の皮が覗くだけになっていた。

2023/10/19

11/25ぐんコミで頒布予定の雑誌『渦転』11月号に掲載予定の小説の冒頭部分です。タイトルはまだ仮です。



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