シダーウッドを手に隠す

恋人を消した。
休日の夜に会うことが多くなっていた恋人と、その日は久しぶりに昼食を共にした。 現在興味のあるもの、仕事で課題だと考えていること、ネットで見た記事について。そんなとりとめのない会話をして、自転車を停めていた駐輪場へ行って。
「じゃあね。」
軽い調子で投げられたその挨拶を聞いてすぐ、私は恋人を消した。
街のざわめきから隔離された地下駐輪場で、私の鼻水をすする音が響く。ポケットティッシュで鼻をかんで涙をぬぐうと、手から濃厚な、甘ったるい香り。店のトイレにあったハンドソープのものだ。
「ずっと手からいいにおいがするね。」
恋人はそう言って嬉しそうにしていた。恋人はそのブランドが前から気になっていて、クリスマスプレゼントはそこのシャンプーとリンスがいい、と言っていた。
クリスマスまであと二週間だった。
寒気が重たい布団のようにからだを圧迫してくる日だった。押しつぶされぬよう、ぐいぐいと自転車をこいだ。濡れたマスクが冷たい。
会社には早退の連絡をした。鼻声での連絡に、親切な上司は気前よく半休の手続きをしてくれた。にもかかわらず、帰宅後にはすっかり頬は乾いていて、豪快に鼻をかんだらそれ以上鼻水は出なかった。
暖房をつける。温風が部屋に散らばった物を撫でていく。片付けようと机を振り返ると、昨日描いたまま出しっぱなしの絵が目に留まる。昨日は絵を練習していた。絵がうまくなりたいと思ったから。
「早川、絵がうまくなりたいなんて思ってたの?」
恋人の消滅を決定づけたのはその一言だった。私は趣味で絵を描いていた。恋人の言い分はもっともで、色彩やデッサンについて学ぶことなく、本当に「趣味」として絵を描いていた。毎日なんとなく、楽しく描ければいい、と、思って。だけど、
押されてはいけないスイッチを押されてしまった。学生の頃、本を買って、ペン先やインクや紙を何回も何回も買い足して、ペンダコを作りながら絵を描いていたことを思い出してしまった。あの時確かに私は絵がうまくなりたかったはずなのだ。
「毎日なんとなく楽しく絵が描ければいいや、って感じかと思った。」
恋人はそのことを知らない。私も忘れていた。だけれども思い出されてしまったのだ。思い出された過去の私は、まぶしく尊い我が子のように思われた。誰にもこの子を傷つけさせはしない、という強い思いを、子の存在を否定された瞬間に持ってしまった。
穏やかな昼のひかりが差し込むカフェで、私は張り裂けそうになっていた。小洒落たきれいな空間、ずっと食べてみたいと思っていたサンドイッチ、楽しい会話をしてリフレッシュして、清々しい気分で仕事に戻るはずだった。
恋人を消してから二週間がたった。恋人の住んでいた部屋は空き家になり、電話番号は他人のものになり、恋人名義で契約していたサブスクリプションはログインできなくなっていた。
恋人は完全に、私の世界からいなくなった。それにもかかわらず、体が張り裂けるような感覚はあの日からずっと消えない。
仕事帰りに駅前に寄る。ハロウィーン直後から飾られていたイルミネーションの光が目を刺激する。今日が最後だと半ばやけくそのようにぎらぎらと光って、駅前の騒がしさによく似合っている。
駅ビルの中の、あるスキンケアブランドの店に入る。恋人がほしがっていたシャンプーとリンス、ではなく、あの日カフェにあったものと同じハンドソープを購入した。店員に勧められ一度試すと、あの日と同じ、重い香り。これはいったい何のにおいなんですか、と聞くと、店員は親切に教えてくれた。
マンダリンとローズマリー、それからシダーウッド。
帰宅してもう一度手を洗う。あの日のにおいがもっと濃くなったように感じる。
クリスマスの華やかさとは程遠い、散らかった、暗い、静かな部屋。電気をつけないまま足を踏み入れると、かさり、と足元から音が聞こえる。描きかけの絵が視界の端に移る。「ずっといいにおいがする」とほほ笑む恋人の顔を思い出す。私が本当に消したかったのは恋人ではなかった。まばゆく光る我が子を抱きしめるのは、堕落しきった怠惰な私。
甘くて濃くて、重い香り。私の手には、あの日の恋人が閉じ込められている。

2020/12/14

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