心は江の島へ、脳は駅ビルの無印良品へ

 老人がいた。老人はぼうぜんとしていた。白の少ない目をぱっくり開けて、ものを噛めない口をあけたままで。
 ぼうぜんとしていた。ぼうぜんとしていた。ぼうぜんとしていた。
 おれはすれちがって、老人が向くのと逆方向に進んでいった。足取りは不思議と軽かった。発泡スチロールみたいに拍子ぬけの軽さだ。
 おれの足取りは軽い。脳の信号を送らなくても、自動で身体は進んでいった。心は江の島へ、脳は駅ビルの無印良品へ。
 足は進んでいるはずだった。だけどちっとも地面の景色が変わらなかった。おれの足は江の島の砂浜へ、無印良品の暖かい木の床へ進んでいるはずなのに。
 波音の代わりにまちなかアナウンスが耳を通り抜けた。背後から人が近づき、そしておれのからだを追い抜く気配がした。
 前方にはあの老人の背中があった。老人は力強く歩いていた。コンクリートブロックみたいに重いからだをひきずって。
 おれの足は動いていたが、のろすぎた。だってほら、あのぼうぜんとしていた老人ですら、おれを、おれを、おれを

 まちなかでぼうぜんとする青年だった。おれは。

2023/09/08

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